紫水宮

嘉村詩穂の告知ブログ

今後の活動について、現時点で考えていること。

ここのところ、公募にも出さず、かといってネットにその多くを載せることもなく、ひっそりと創作をつづけている。

他者からの評価を得るためではなく、自分自身のための創作をしていきたいと今は考えている。

昼間はとある公募に出そうかとも思ったのだが、それでたとえ賞を取れたとしても、詩集を刊行できるわけでもない。

詩人として詩を書いて生きていくことは第一として考えてはいるけれど、目先の欲だけに囚われたいとも、今は思えない。

無名の人間のまま死んでいくのかとも思うけれど、人生の最期の瞬間を迎えるにあたっては、私自身がどのような人間として振る舞ったかが全てであって、それ以上に大事なものはないのだろうと今は思う。

それは育ての親であった祖母が天寿をまっとうして亡くなって、その最期を看取った人間としてよくわかったし、たとえ無名であったとしても、最期まで立派に、そして優しさをもって生き抜いたという事実だけが、残された者の胸を打つのだということを、祖母は最後に教えてくれた。それは何よりも人として尊い教えなのだろう。

100分de名著のフランクル『夜と霧』を先日読み返していて、病気で何もできなくなってしまった人が、最後に人間の尊厳を見せるのは、何を成したかではなく、人間としてどのような態度を表したかということに尽きるという趣旨のことが書かれていた。

何も持ち得ない、死を間際にした人間が、最期に感謝の言葉を伝えて息を引き取る。その様を祖母は見せてくれたし、フランクルの言葉は、実感として私の胸に迫ってきたのだった。

公募に出してその結果に一喜一憂するのも今は疲れているし、思想の如何を以て他人の秤にかけられることそのものが不快でならないのだと、昨年の某所への投稿で思い知ったので、今はそれらから無縁なところで詩を書きたいという思いが強い。

それはXから離れたことで得られた感覚だろうし、あるいは今の時勢を日々観察しているから得られた知見かもしれない。

今は自分自身が呼吸しやすい場で活動したいという思いを抱くようになっていて、それが同人誌という形をとるのか、BOOTHでの有償配布という形を取るのか、あるいは全く誰にも見せないで詩を書きつづけるのか、今はわからないけれど、とにかく作りたいときに作れるだけのものを書いていきたい。

世に対して自分自身の詩を問いたいとか、詩を以て世に出たいとかいう俗な考えももう失せてしまって、今は塚本邦雄が20部限定で自筆の歌集を作っていたように、遊びの延長で詩を書きたいと思っている。

それが最も優雅な詩人としてのあり方だと思っているし、やはりそうすると極少部数のみ同人誌を作るという方法が妥当なのかもしれない。

それで何部捌けただの、売り上げがいくらあったのだのと野暮なことは語りたくない。

今はそれでいいのだと思うし、戦時下に谷崎が私家版の『細雪』を作ったように、私もそのような活動をしたい。

小説に関しては、近しい人が再び筆を取ろうとしているという知らせを聞いた。

自分なりに書きたいジャンルと巡り会えたのは幸いというべきだろう。私自身はそれが果たせなかったし、そうして小説を書けなくなってしまった。

それでも昨年末から、少しばかり掌編を書くようになってきた。

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今再び小説を書こうとすれば書いていけるのだろうか。

少し考えてしまうこともあるけれど、それも商業デビューなどということは度外視していたい。カクヨムコンテストの短編部門で最終候補になったことも、商業誌に載ったことも3度ほどあったが、商業デビューこそ全てと思っていたのは、ある種の呪いに他ならなかったのだと今は思う。

あるいはもう少し病状が良くなれば、そうした意欲も出てくるのかもしれないが、私自身の理想とする形を追おうとすればするほど、今の世の中から遠ざかってしまうのではないかという思いもある。

そうしてひっそりと自分自身が趣味的に創作をしていくことが、少なくとも現状では最も妥当な私の書き手としての延命法なのだろうと直感している。