紫水宮

嘉村詩穂の告知ブログ

詩を書くことは楽しいか? という問いへの答えと、新たな一歩を踏み出そうとしていること。

近しい人が創作活動を再開したという知らせを聞いた。そのことを本当に喜ばしく思うと共に、自分自身の創作はこれでいいのかとも思う。

また先日、とある詩人の投稿履歴のようなエッセイを読んだことで、もう一度あの投稿の日々に戻りたいという気持ちに駆られてしまった。

そうした外的な要因にあまり左右されずに、自分自身の創作物と向き合いたいと思ってきた。投稿生活から離れてしばらく経ち、この間に海をモティーフとした詩ばかりだった傾向から、だんだんとそこから離れて、さまざまなモティーフを用いるようになった。

そのことを単に寿ぐことはできない。血肉と化した言葉でなければ詩にはなり得ないという感覚は、吉増剛造『詩とは何か』を読んで以来、強く私の中にある。

そうして自分自身の体のうちからこぼれてくる言葉を詩に起こすという作業に関して、できるだけ他者の目の届かないところで書きたいと思ったのは、ある種の必然性を伴っていたのかもしれない。

ただ、それだけで本当にいいのかとも思ってしまう。思えばそうして公募から離れたことで、私は急速にあらゆる意欲を失ってしまった。生きることそのものに関しても、持病で平均的な余命が30年ほどとなっているので、余生を過ごしている感がある。

できないことばかりが増えていく時間がつづいていて、その中でかろうじてできることは文章を書き、詩を書くことだけなのだという思いが日々募る。

もう一度公募に出すとして、それなりに体力的にも気力的にもコストを振り絞ることになるが、それを覚悟の上なのかと自問する。答えはまだ出ないけれど、少なくともネットに載せてそれで終わり、という形にはしたくない。

かといって同人誌の詩集や、KDPで詩集を編むことなども、ずいぶんと先延ばしにしてしまっている。

詩を書いていて楽しいかと冒頭の近しい人から問われたことが何度かある。楽しいとはとても思えないが、詩を書くことは、私自身のバイオリズムと不可分な関係にあり、詩を断とうとしたこともあったけれど、今度は著しく調子を崩しただけだった。

そうしてダークな詩ばかり書いていても何ら楽しいと思えないのだが、それでも詩を書くのはそれが肉体的な快楽と密接に関わっているのだろうと思う。ココア共和国の秋吉久美子賞の最終候補となった時、選評に「嘉村詩穂の詩はエクスタシー」と評していただいたことがあった

死から生へ、生から死へと向かうエクスタシーは、私自身の詩作の原点を振り返ってみても、全く同様で、一貫して変わらない。詩を通じて私は生き、そして死んでいるのだと思う。

かりそめの死を迎えるために、そして新たに生まれ変わるために詩を書いている。それは楽しいという言葉ではうまく表現できないし、肉体的な必然性に駆られて詩を書いているのだという方が正しいかもしれない。

そうして生まれた詩と、私はこの公募から離れていた数ヶ月の間に、どれだけ向き合えたのだろう。新たな模索を試みはしたけれど、それがどれほど成功したかはまだ実感として掴めずにいる。

いつしか詩のモティーフは、「海」から「喪に服す」というテーマへと変わっていった。それは私自身の両親との別離や、大切な人との別れがあったからで、この先数年はこのテーマから離れられないだろうと思う。

そうした中でいかに新たな詩を生み出していくのか。ココア共和国では、ずいぶんと秋吉久美子先生に評価していただいてきたけれど、ユリイカ現代詩手帖でどの程度通用するものなのか、全く読めずにいる。そうたやすいものではあるまいと思えば思うほど足がすくむ。

それでも足を踏み出さなければ、ずっとこのまま秘して誰にも見せることなく喪に服す詩を書き続けることになるだろう。新たな景色を見てみたいと今は強く思っている。