紫水宮

嘉村詩穂の告知ブログ

2024.06.24 Personal Languageとしての英語

英語で持病にまつわる弱音を書く日々を送っている。

持病が重く、絶え間なく襲いかかってくる病苦の愚痴を日本語で書いていると、だんだんと気が滅入ってきて、自己嫌悪が募る一方なので、それを英語で書きはじめたのだった。
英語で書くと、そう高度な表現は自分の技量では使えないため、どうしてもストレートな物言いになる。

日本語を用いていると、自分自身の特性として、どうしても抽象的な表現や、婉曲的な表現を用いたり、その言葉の持つ意味をより広義なものに置き換えて中和しようとしたりする癖があり、さながら京都人であるかのように、意図する言葉をストレートに表すことができない。
殊対人関係における口頭でのコミュニケーションにおいては常にそうした計算が働くため、リラックスして人と話すことができない。

先日読んだ『東大教授の考え続ける力がつく 思考習慣』に、ちょうど私と同じようなコミュニケーションの取り方にまつわる記述が例を挙げて出てきたが、自分自身の話し方は京都人に近いのかもしれないとも思ったのだった。

常に自分自身が言葉を発する前に計算をしながら話しているため、どうしても疲れてしまうのだ。必ずしも自分自身の本意ではないコミュニケーションを取ってしまう場合がとても多く、それは多かれ少なかれ誰もが行なっていることだと思うが、家族に対しても同様のコミュニケーションを取ってしまうので、どうしても疲れが癒えない。
これは私自身の生育歴の課程で生まれた自分自身のコミュニケーションのあり方なので、それを一から矯正するのは難しい。たとえそれが自分自身に向けられる言葉でしかなかったとしても、やはり同じように周りくどい物言いをしてしまう。
そうした点で英語だと、どうしても自分自身の表現が拙いために直接的な物言いになる。自分自身の感じていることをダイレクトに言葉にする気持ちよさを感じていて、だから英語を6/15〜から一日も休むことなく書き続けていられるのかもしれない。

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